Tomitaro Makino【牧野富太郎(壮年)】

【牧野富太郎Tomitaro Makino】 ~日本の植物学の父

世界に遅れをとっていた日本の植物学を世界レベルにまで押し上げた、大功労者です。

もちろん園芸分野にとっても、決して忘れてはならない超重要人物です。

検索していただければ沢山の画像が出てきますのでお分かりいただけると思いますが、イケメンなんです。オシャレというか、とにかく細部までこだわりがある感じで、そんな妥協のない性格が大偉業を成し得た要因の一つだったのかもしれません。
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富太郎さんの略歴を。

1862(文久2年)年4月24日
高知県高岡郡佐川町の造り酒屋に生まれる。
10歳頃、寺子屋、伊藤蘭林塾で習字、算術、漢学などを学ぶ。
その後小学校が出来て入学したが2年位で、飽きてしまい退学。
つまり最終学歴は小学校退学。
その頃から自然を相手に植物学を独学する
明治17年、23歳の富太郎は東京大学理学部植物学教室での研究を許可され、研究に没頭し、酒屋の財産を使い果たすほどに、、、。
明治23年、29歳で壽衛(すえ)と結婚。
とにかくお金には無頓着で、欲しいものは手に入れる性格のため、散財の嵐。
特に書物や研究に使うお金は糸目をつけなかった。
当然、家計は火の車。夜逃げ同然の引越しを繰り返す。
子供十三人に恵まれ、さらに生活も困窮しというもう何だか訳がわからない状態に。
それでも、植物の採集、標本作り、著書の発行に邁進した。
壽衛の献身的な支えをはじめ、どうにもならない時に様々な救いの手があったりと、首の皮一枚で研究を続けてきた。
それを可能にしたのも、植物に対する凄まじいほどの情熱を持ち続けていたからだろう。
思い続ければ願いが叶う、引き寄せの法則みたいな感じか。

79歳でそれまでの植物採集をまとめ、『牧野日本植物図鑑』を刊行し、ベストセラー本となる。
80歳になっても情熱は衰えず、満州国までサクラの調査をしに行くハツラツぶり。
富太郎自身で、自らを【私は植物の精】というのも納得である。
96歳で生を全うするまで、植物を愛し、植物に愛され、植物のために生き、植物のために全てを捧げた、そんな人物。

採集した植物標本50万点、新種1,500点命名。

もちろん富太郎さんただ1人の力だけでこれほどの業績を残すことは難しく、多くの方の力添えがあったからこそだと思います。
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しかし、その中心に立ち、決して消えることのない情熱の炎を燃やし続けたのは、紛れもなく牧野富太郎さんだったことでしょう。
何かを成し遂げるために必要なものは、知識、技術、才能と色々ありますが、【尽きることのない情熱】を忘れることはできません。

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